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2005年07月16日

直感的インターフェイスデザインの「直感」って?

大学でデザイン教育を受けてきた立場から見ると、下手なデザイナーが直感という名のもとにあまり考えもせずにひりだしてきたデザインが許せなかったりします。
独りよがりの直感だからです。
そんなこんなで面白そうなことを書いているblogがあるなぁ、ということで反応してみるです。
しかし今の今は岡村靖幸の逮捕のほうが気がかりではあるのですがまぁそれはそれとしまして。

さて、shi3zさん

良いデザインというのは「直感的」であるものだと思います。

「直感的」とは、人間が経験してきた様々な経験の蓄積から、あるパターンを見た時に瞬時にその結果が予想でき、またそれが実際にそのように作動するということです。

とおっしゃり、中嶋さんのblogではもう少し詳しく、
人間は、物が重力によって下に落ちるとか、丸いものはころがるとか、
沸騰してる液体は触ると熱いとか、細い糸はもつれるとか、
薄いものは破れやすいとか、重心の高いものは倒れやすいとか、
冷たいものはぬるくなるとか、息をしないと苦しいとか、
つぶつぶは拾えるとか、炎は上に燃え広がるとか、
だるまはなかなか倒れないとか、
積み木は揺れると崩れるとか、氷の上はすべるとか、
水に濡れると冷たいとか、遠くの音は遅れて小さく聞こえるとか、
腕はある角度以上曲がらないとか、固いものは落ちたら壊れるとか、
ドミノ倒しの原理とか、空洞のものは水に浮くとか、
尖ったものに触ると痛いとか、ねじったものは戻るとか、
細いものを立てると倒れるとか、重いものはなかなか止まらないとか、

そういった物理現象に対する基本的な感覚を、誰に教わるともなく、
幼少のころまでに完璧に学ぶ。さらに、視覚的な情報だけしかなくても、
このような物理現象が起きることを予想し、
それに非常に速く反応することができる。

とそれぞれおっしゃっていますが、以下はそれらについての雑感になります。
といいますかカンタンに言ってしまっている「直感」は誰の「直感」なのか、ということを考えるとなかなかに奥深いと思うのですよ。

例えば人間と比べて10の100乗くらい大きな生物がいたとしたら、窒素ベースの生物がいたとしたら、その直感はきっとわれわれのものとまったく違うだろうに… とかですね。
そんなSFまがいのことを持ち出すまでもなく、(前にも書いた覚えもありますが)おそらく文化圏が異なるだけでずいぶんと「直感」で認識される幅が違うはずなのですから。

ここで話がちょっと飛びます。

さて、大量の情報を操作するときに一番直感的に動かしやすいのは、現状では本のメタファーであることは疑いようがありません。少なくとも僕にとっては、です。
Webサイトでタブを使っているところなどを見ても、いわゆる一般的に「使いやすい」といわれている情報操作系のインターフェイスデザインは本のデザインシステムを踏襲しているはずです。

もう少し例をあげてみると、 「←」 「→」 とアイコンが並んであれば普通は 「戻る」 「進む」 と読み取るでしょう。
でもなんででしょうかね?

この例であげたように、情報の流れや時間の流れが左から右であらわされることが多いのは、人類に右利きが多いことと関係がないとは思えません。直線を引くときには骨格的に左から右へと引いてしまう、そのベクトルが関与している方が多いのではと思うのです。ページをめくる動作もそうでしょう。(魚や動物を書くときにはなんとなく左を向けてしまう、というわけですな)

んで話を戻します。

ことインターフェイスデザインに関して言えば、物理現象というよりは動物である人間の種としての規定、文化的な規定に関係しているのではないか、と思っているのです。

もちろん、いわゆる「常識」を紡ぎだすにいたるのには、さまざまな物理現象を目の当たりにしてきた経験の積み重ねが必要であることには異論はないのですが、僕ら制作者サイドの立場からしてみればむしろその物理現象を捉えるフィルターであるところの人間の動物としての枠組みの方に大きく関係していると考えねばならないのではと思うのです。
幅ったい書き方で繰り返すと、上で「物理現象」と書かれているものは「人間という動物種のうち特定の個人およびその属するグループが認知できる範囲の物理現象」でしかないということです。
なんとなれば、色弱の方の例を挙げるまでもなく可視光線の波長範囲だって聴覚可聴範囲だって個々人でかなり違います。誰でも80歳を過ぎれば歩いていける範囲も狭まりますしマウスの可動スピードもクリックスピードも動体視力も変わってきます。右利きと左利きとでは平均余命も違うという統計もでていることですし、同じ物理現象から受け取る情報にしてもそれなりの差があるでしょう。

こういった差異があるにもかかわらず、下手なデザイナーは自らの規定するフィルターで通過させて理解した「my常識」に過ぎないものを疑いもせず「物理的事実」だと考えてしまい、子供やお年寄りや身体障害者やとりもなおさず多くのバラエティあふれる消費者にとって使いづらいデザインを作ってしまうわけです。
もっとも、文字を右から左に書く言語体系を持つ人々がどのような「常識」で世界を捉えているのかなどはちょっと僕には想像つかないので教えていただきたいのではありますが。

さてさて。
これら云わば「文化的・属個人的常識」であっても「物理的事実」と密接に関係していることも理解しています。

例えば、言語学的に上下方向の高さの度合い=高低を表す言葉と温度の度合い=高低を表す言葉が同じことが多いのは比重が関係しているのかもしれません。
またその中間としては、グラフなどを描くときに下から上に行くにしたがって数が多くなっていくのは「成長」というタイムスケールのちょっと長い生物的動作の表れかもしれませんし、純粋に結晶というか析出していくときに物の嵩が増えていく際、鍾乳洞のようなものが下敷きとしてあったのかも知れません。


(ここでなんだか話が飛びすぎていることに気づいた自分がいる)

翻って。
ではなぜゲームのインタフェイスが「よくできている」と評されることが多いのかということを考えてみたりして。

これについてはいまさらカイヨワなんぞを引くつもりもありませんが、恐らくは「ゲームはそれ自体やりたくてやっている動作だから」ではないかと睨んでいるのです。インターフェイスと内容が密にリンクしているという意味です。

一方で、電話を使うときや炊飯器のスイッチを入れる操作をするときには、「喋りたい」「米を炊きたい」が主にやりたい動作であり、「ボタンをプッシュしたい」と切望している人はまずもっていないでしょう。本質的に内容とリンクしてないですし。

ここら辺の話は20代前半の頃、同じ建築を学ぶ学生でありCLUBKING周辺にいて親しかった鄭秀和くんとデザインやら音楽やらについて熱く青く話していたのですが、鄭君はその思いを10年以上持ち続け、いまではatehakaとかamadanaといったデザイン家電をも手がけている気鋭のデザイナーとなっています。
ですからリモコンや炊飯器を出してきたときには思わずにやりとした次第。
彼はきっと「計算なんかよりボタンをたたいているだけで無性に楽しくなる電卓」を作りたかったデザイナーなのでしょう。TIにもきっといたと思うけどもね。
 →atehakaの家電など
 →amadanaのキッチン用品など

こう考えていくと、クルマやバイクのデザインに素晴らしいものが多く散見されるというのには、ゲームと同じく「操作するだけで楽しい」というそれ自体の性質が関係しているのかもしれませんね。Macintoshのファインダーもそうかもしれませんが。

雑感1
そういえば数年前に小西康陽さんの個人事務所のサイトデザイン用にNendographixxxのANIさんとモリサワジュンさんと組んで「平面的なタブ構成による情報切り替えではなく画面の奥へ奥へと進んでいくデザイン」というのを考えて出したことがありますが、あまりに斬新過ぎたからかボツを食らったこともありましたっけ。あまりに逸脱しすぎてもダメってことですな。
雑感2
先週だかに中嶋さんに「気持ちよく幾何の操作ができるインターフェイスがDSでできないか」とか話しましたが、同じようなことを考えているやつらがPalo Altoにいやがりました。→http://www.tactiva.com/ かっちょいー。まさに操作するだけで楽しそう。10年以上前にHyperCardでしこしこと作っていたものを引っ張り出したくなってきましたわさ。

投稿者 KQZ : 2005年07月16日 12:28 | [EDIT]

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コメント

tactapadは知りませんでした。

ところで、
「身分の高い人は、高い位置に居る」というような、
世界中のどの文明でも同じように使われているルールをあつめたHRAFというアーカイブがありますが、それを見てみると面白いかもしれません。

「〜の問題を解決するための必要悪としてのインターフェイス」
という世界観から、
「操作を楽しんでいるうちに〜の問題が解決された」
というのが普通だという風に変化できるのではないかと思います。
むずかしいけど。。


投稿者 ringo : 2005年07月17日 13:53

アフォーダンスって奴ですかね。

色々思い出させる言葉です。

投稿者 Feanor : 2005年07月17日 23:15

そういえば昨日このエントリーを書くときに石原慎太郎vsフランス語教師の訴訟のことを思い出したりもしたのでした。
フランス語での数の取り扱い方だけで世界を認識している相手とちゃんとコミュニケーションできるかどうか… などという危惧をするというのは石原氏が表現者だからなのでしょう。
彼我の絶対的な断絶を認識した上で、そしてその上で尚且つコミュニケーションしていこうという決意こそが表現者の表現者たる所以なのですから。
(言葉遣いがどうのこうのという低レベルな話は置いておくとして、です)

…なぁんて事書いてると「お前は学生のとき石原慎太郎事務所でバイトしてたからだろ」とか言われそうだからやーめたっと。

投稿者 KQZ : 2005年07月18日 00:31




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