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2006年06月08日

ネットと網野史観

同じようなことを書いている人がいるなぁと思ってエントリーしてみる。

さるさる日記 - 司史生の浮草雑記
■2006/06/07 (水) まとめブログ問題の網野的解釈(ヨタ話)

 http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=449015&log=20060607

Vipper VS ニャー速のまとめブログ問題について、あちこちのブログを見る。 紅衛兵やイナゴに例えられているが、この件は網野善彦の無縁論や黒田俊雄の顕密体制論を見立てに当てはめると面白いかもしれない。

著作権については「名無しさん」たちがやってたコピペはどうなんだという突っ込みがあるが、これは網野氏の言う「無縁の場」の理論があてはまる。 Vipperは2chを、著作権や商取引といった外在的秩序から自由なアジール、聖なる「無縁」の場として認識していたということだ。
アフィリエイトの問題が槍玉に挙げられたのは、単純な利得への嫉妬ではなくて、外部の資本主義の論理によって、聖なる領域を侵犯され嘲笑されたことへの根源的な怒りがある。

恫喝や押しかけといった行動も、聖なる領域をめぐる問題だからこそ生じる。 VIP板に見られる自嘲や自虐のネタは、穿った見方をしれば「賤にして聖なるもの」という両義性を帯びているという、彼らの自己認識の産物ではないのか。

だから「名無しさん」という匿名はこのケースの場合、身元を秘匿するという消極性にとどまらず、個性を捨象することで「天の声」としての集団的普遍性を獲得するという、僧兵の覆面装束のような意味を付与されているのだ。
覆面ゆえにこそ彼らは、聖なる無縁の領域の使徒としての霊的権威を獲得することになる。

聖なる領域で優越するのは神仏の霊威、人間の合理主義を超越した力だ。そのため彼らの行動は、合理性や俗世の秩序とのすりあわせなど無視したものとなる。それどころか非合理なものでなければ、俗界を畏怖させうる超越性を獲得することはできない。

ネットにおける群集心理の中には、案外こういう呪術的思考のアーキタイプがひそんでいるのかもしれない。

彼らはむしろ情報化社会という新たな中世に出現した「ネット犬神人」と言うべきなのかもしれない。

するとつぎは飛礫か(w

要は匿名掲示板をして無縁の場、名無し顔無しの聖性という見方ということですかね。
同じようなことを考えている人がいると自分がそんなにはぶれていないような気がしてちょっとだけ心が休まるのは不思議だ。

するとつぎは飛礫か(w

この部分に関しては前に「blogのトラックバックを網野善彦史観でいうところの「封建社会における飛礫」となぞらえて考えるのも一興」と書いてみたことがあるのですが(→Link:News23を見てしばし唖然、のち来客)、この書き込みから一年以上経って振り返ってみるだに未だ威力のあるトラックバックというものは見かけたことがありませんので……
むしろネット上の数多散見される炎上現場を眺めていると、逃げることの出来ない当人を磔の刑に晒しているうえに、無縁所から顔無し名無しの石つぶてが浴びせ掛けられしまっているような状況さえうかがえます。
美しくはない、が、まことに日本的なのかもしれません。
良くわかりませんが。
ネット封建主義とかいうありきたりな言葉の変な解釈も思いついたけどメンドクサイからやめとこう。

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網野史観とか飛礫とか無縁の場について知りたい向きは「蒙古襲来」とか「無縁・公界・楽」とか「異形の王権」を読むがよろし。
というか普通の大人なら読んで無い人のほうが珍しいだろうけど。


  

投稿者 KQZ : 2006年06月08日 21:01 | [EDIT]

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